展示エリア
前回記事その⑦の続きからです。
首都圏で最大のバス事業者は、ロンドン・ジェネラル・オムニバス社(LGOC: London General Omnibus Company)でした。
小さいバス事業会社もありましたが、LGOCはそういう会社を「pirates(海賊)」と呼んでいたそうです(;’∀’)
バス業界の競争が激化したため、政府も介入せざるを得なくなり、路線ごとにバスの台数を制限するなどのロンドン交通法が1924年にできました。
小さな独立系バス会社の広告
1920年代、ロンドンの小さな独立系バス会社であるカンブリアンが発行した宣伝用リーフレットです。「海賊」は、大手バス事業会社のロンドン・ゼネラル・オムニバス社が、子会社に対して使う罵倒の言葉でしたが、この会社はそれを逆手にとって自らを海賊と表現して宣伝しています。
リージェンツパークで給油するストライクブレーカー
肩身の狭い思いをしている小さい独立系バス会社でしたが、
大手バス事業会社のロンドン・ゼネラル・オムニバス社の組合員が、ストライキを起こした際は、ロンドンを走るバスが小さい会社のバスのみとなり、大忙しだったそうです。
1945年、第二次世界大戦直後は、ロンドンの街は多大な爆撃被害を受け、ボロボロの状態でした。
1948年、ロンドン交通局と4つの主要鉄道会社が国有化、ロンドンの交通機関は政府の直接の管理下に置かれることとなります。
戦争による混乱の時代から交通システムが復旧するのには時間がかかりました。
RT型モーターバス, 1954年
RT型バスは、ロンドンバスの基礎となった型番です。1939年に導入され、40年にわたりロンドンで活躍しました。
第2次世界大戦の影響で大量生産が遅れたそうです。
博物館で展示されているこのRT4712は、このタイプのバスの代表的な車両です。2002年、女王のゴールデン・ジュビリーを記念して、金色に塗られました。
7,000台生産されたRT型は、その当時の最高の技術力とスタイリングが採用されました。標準化された交換可能な部品により、修理にかかる時間とコストが削減され、非常に効率的な車両となりました。
RT型は、ロンドンの激しい交通量に対応するために特別に設計され、その後40年間も使用されました。
戦後のRT型は、より流線型の車体を採用し、シャーシ(ボディを載せる台(骨組み)のこと)間の互換性を持たせるなど、デザインを一新しました。
これは、戦時中の航空機製造からヒントを得て開発されたもの。標準化された車両のオーバーホールを効率的に行うため、大規模なオーバーホール工場であるアルデンハム工場が設立されました。
RT型バスの内装
乗客に切符を発行する車掌
1953年6月2日、エリザベス2世の戴冠式が行われた日のトラファルガー広場
観光客を乗せたRT型バスの列が写っています。
バスの止め方
必ずバスが止まる停留所は一部で、基本的には運転手は乗車したい人からの合図があった場合のみ止まるシステムでした。
写真では、人差し指を立ててバスを止めている人が写っています。
1960年代になると、車の所有率が上がり、バスの利用率は少なくなり、ロンドンの交通渋滞は悪化しました。
渋滞によりダイヤ通りのバスの運行が難しくなり、ロンドン市民が他の交通手段を探しだしたことでさらにバス離れは加速します。
それを解決しようと、ロンドン交通局は新しいバスを何台も導入しましたが、渋滞問題は解決せず…。バスの数は多い一方で、乗客の数は少ないという状況になってしまいます。
フィンチェリー・ロードで渋滞に巻き込まれるバス, 1959年
そこで、導入されたのが「混雑課金(Congestion charge)」。
平日の通勤時間帯に、ロンドン中心部に流入する自動車に対して課税されました。税額は車種を問わず一律5ポンド、夏休み期間や年末年始は値上げされます。
市民は通勤時にバスを利用するようになります。そして、税収をバス交通へと使うことで、さらに渋滞は軽減されたとのこと。