時計展示エリア「The Clockmakers of London」
博物館の3階(イギリスでは2階)には、「The Clockmakers of London」」(時計コレクションの展示)があります。
数多くの時計のコレクションの展示、1600年から現代に至るまでのロンドンにおける時計製造の革新の歴史について学ぶことができるようです。
展示されているコレクションは、1851年から、ロンドン市内にあったギルド「クロックメーカー協会(Worchipful Company of Clockmakers)」によって管理されていたそうです。
クロックメーカー協会は、1637年に英国王室の認可を受けて設立。「ロンドンにおける時計製造業を規制し、高い水準を確保する」という目的の元、運営されていました。
1851年から1872年までクロックメーカーズ博物館が展示されていたビショップスゲートのロンドン・タバーン
展示されているコレクションの中には、1500年前の日時計(現存する歯車機構としては2番目に古い)、
600以上のイギリス製とヨーロッパ製の時計、80のクロック、25のマリン・タイムキーパー、そして数々の貴重な時計製造職人の肖像画が含まれています。
洗練された時計製造の技術。時計の部品にはそれぞれ細かく名前がつけられています。
各部品の用語説明のパネル
時計・腕時計の文字盤のナンバリング
時計の文字盤の時間表示には、伝統的なローマ数字が使われてきました。
「VIII」(8)は4文字で、文字盤上で最も長いローマ数字です。そこで時計の文字盤をバランスよく見せるために、「4」(2文字だけのローマ字:「IV」)は、伝統的に「IIII」と引き伸ばして表記していたそうです。
日差を記した「時差表」が印刷されるようになったのは、1660年頃からのこと。
サン・ジャコモ・ディ・リアルト教会の時計, 1410年
24時間表示の文字盤に輝く日の丸の針を持つこの古時計は、雲や暗闇でベネチアの日時計が使えない時に、代わりに使用されていたものだそうです。
太陽・惑星の動きが時間経過を記録するために利用されていました。
15世紀半ばに機械式の家庭用時計が導入され、明暗や天候に左右されない計時手段ができましたが、精度は依然として低いままでした。
しかし、16世紀になると、航海がもたらす富と権力に憧れ、ヨーロッパの海洋国家は探検、征服、貿易に興味を持ち始めます。そうすると、時間を正確に記録することが必要に。
正確な時計を作ることは、大きなの利益を生む可能性のある科学的挑戦となっていました。
版画絵, 1575年
16世紀フランスの船乗りは、天文台と十字杖を使って緯度を計測していました。しかし、航海に必要な情報としては不十分だったそうです。
時計製造の中心地となったロンドン
現存する最古の機械式時計の記録は11世紀の中国。1300年頃までには、ヨーロッパ各地の重要な建造物に機械式の公共時計が設置されるようになりました。
18世紀、貿易が急成長していたロンドンに、周辺諸国から職人が集まり、研究・発明が行われるようになります。
その結果、正確な時刻を刻むための機械技術が向上し、探検・地図作成・貿易が発展。大英帝国の建設と産業革命の基礎を構築します。
ニコラス・クラッツァー (Nicholas Kratzer)の肖像画
ドイツの数学者、天文学者、時計学者。1517年頃、ヘンリー8世の庇護のもと英国に渡り、オックスフォード大学の天文学の講師に任命され、数学の家庭教師も行っていました。
16世紀のロンドンでは、家庭用の時計や日時計を所有していたのは、ごく一部の富裕層だけでした。
ヘンリー8世(1509-1547)とその後継者は、外国の時計職人や数学者がロンドンに定住することを奨励しました。彼らの技術をロンドンに持ち込むためです。
当時、周辺諸国では宗教的迫害が行われていたことがその誘致を促進させ、その結果、ロンドン市内には職人・技術者がどんどん集まりました。
特にブラックフライアーズ周辺にルネサンス様式の時計師が集まり、繁栄していったそうです。
同時期にロンドンではペストが大流行。
ロンドンでの新規産業も大打撃を受けましたが、1600~1615年頃にかけて、フランドル様式の時計、ゼンマイ時計、分銅駆動の壁掛け時計が作られ、数多く取引されるようになります。
当時の職人は、ギルドや会社に所属する必要があり、所属無しに仕事をすることは違法とされていました。
チェンバークロック、ウォッチケース、金メッキケース入りのドラムクロック、金文字盤の時計