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前回記事その⑧の続きからです。
1890年11月4日、プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)がシティ&サウス・ロンドン鉄道を開通させました。
写真はストックウェル駅に停車中の皇太子の馬車。入り口には日よけが立てられています。道路を挟んで反対側には、武器を捧げる兵士の列。
スケッチでは、王子は高官たちに囲まれてホームにいます。
1890年代初めには、新しい地下鉄の建設が計画されました。(現在のセントラル線、ベーカールー線、ピカデリー線、ウォータールー&シティ線、ノーザン線)
新しい地下鉄の建設は、民間資金に頼っており、資金が不足することもよくあったそうです。新しい出資者はなかなか見つからず、多くの路線で工事が中断されることになります。
1900年までに開通したのは、ウォータールー&シティ線と中央線のみでした。
ロンドン中心部の鉄道は、近代的で快適、かつ安価で、運賃は一律2ペンスでした。ロンドンっ子はこれを”Twopenny Tube(トゥーペニー・チューブ)”と呼んでいたそうです。
市内の紳士が地下鉄で通勤するようになり、傘の売り上げが減少したのだとか。
新しい地下鉄への興味関心は絶大で、ボードゲーム、絵はがき、土産物がたくさん販売されました。
1903年頃に作られたボードゲーム。バンクからシェパーズ・ブッシュまで最短時間で移動するというゲームなのだそうです。
青で示したのがトゥーペニー・チューブで、バスと路面電車の路線は赤と黄色で描かれています。
地下鉄の広告, 1908年
当時、人気のある商業美術家であったジョン・ハッソルが描いた、地下鉄の宣伝ポスター。
地下鉄が速く、安く、簡単に利用できるということが強調されています。
Let’s go shopping, 1908
地下鉄は、ビジネスやレジャーの旅行者を対象に広告を打ちました。地下鉄で簡単に行けるケンジントンやウエストエンドのおしゃれな新しい店やデパートが、中流階級の女性にとって魅力的でした。
20世紀前半は、第一次世界大戦と第二次世界大戦という2つの世界的紛争に見舞われた時代でした。
他の主要国同様、イギリスも人員と物資を迅速に動員する必要がありました。
ロンドンの交通機関が、戦時中にどのような役割を果たしたのかが紹介されています。
空襲用シェルター
この一人用の空襲用シェルターは、その形状からベルシェルターと呼ばれ、第二次世界大戦中に使用されていたもの。
空襲の際、職員が勤務中に素早く避難できるように、ロンドン交通網の至る所に配置されていたそうです。
1,000台を超えるロンドンバスは、戦場へ部隊や資材を前線に運び、負傷者を運ぶために利用されました。
ロンドン交通局からも戦争のために人員と車両を提供しました。最終的に、699人のスタッフが軍隊に従軍したそうです。
兵士の募集広告
1914年、イギリスには少数の部隊しかなく、兵士を迅速に確保する必要がありました。
写真のポスター「戦争 – 帝国の市民に武器を!」は、敵国の攻撃による被害の影響を描き、兵士を募集しています。
ロンドンバスは救急車としても利用されました。
1939年9月1日、英国が宣戦布告する2日前に、空襲に備えてウェストミンスター病院から民間の患者を避難させている写真。
ロンドンバスは移動式食堂車にも転用されました。アメリカ軍のクラブモビール食堂として使用されたバスを撮影した写真。